5.平和教育実践についての Q & A



   質問@:「平和教育に関する教師たちの意識は?
   質問A:「小学校の低学年や中学年での平和教育のやり方は?
   質問B:「平和教育における小学校と中学校の連携は?
   質問C:「教科の中で平和教育をする時に気をつけることは?
   質問D:「平和教育を受ける今の子どもたちについての感想は?
   質問E:「海外の紛争を教えることについては?
   質問F:「平和教育に教師の価値観や思想が入り込むのでは?
   質問G:「平和教育実践に対して偏見を持たれないために気をつけることは?




 
 学校の教師は、意識として平和教育についてどのように感じられているのですか。 
回答: 教師の意識というのは本当にバラバラです。平和に関することは学習指導要領の中で触れられてはいますが、「平和教育」という項目や用語はありませんし、平和教育の教科書もありません。ですから、「平和教育」を全く意識しないでも、教育活動は行えるのです。教育行政では平和ということについてはあまり触れられません。教育委員会による現職向け実践講座などに「平和教育」という言葉が出てくることはほとんどありません。
 しかし、公教育の目的を誠実に追求していると、意識していなくても平和教育といえる内容の教育活動をしていることはあると思います。だから、平和教育の大事さに気がついている教師がいろいろ声を出していくことで、ほかの教師もそれに気づいて、「じゃあ学年でやりましょうか」とまとまったり、あるいは「学校として大事にしましょうか」となったりすることがあります。

【西宮市の教師の事例】
 
平和教育に関心がある教師は結構います。例えば、西宮市は今、学校現場に若い教師が増えています。教職員の3分の1ぐらいがここ4、5年の間に採用された教師であるという学校現場もあります。「平和」ということは大学でもなかなか学ぶ機会がないし、初任者研修などでも出てきません。職員団体では、若い教職員を対象に平和教育の講座を開いて、こんなこともできます、あんなこともできますというように実践を伝えていくということをやったりしています。
 だから、教師の平和意識がそろっていると平和教育は推進しやすいです。あまり積極的ではない人がいると、やらなければいけないという強制力がないので、自分が担任するクラスや教科の範囲内で平和教育を実施することになります。そして、一人でも平和教育に意識的に取り組んでいると、それに触発されてほかの教師が始めることがあります。
 教職員の平和意識が表れるのが修学旅行の行き先で、西宮の場合は40ほど小学校があるうちの半数ぐらいが広島方面に行って平和学習を中心にした修学旅行をしようとなっていますけれども、残り半数ぐらいは伊勢とか犬山とか奈良とか、そちらのほうに行って観光中心の内容となっています。教職員は異動して少しずつ入れ替わりますから、学校の中でどんな議論がなされるかによって、修学旅行の行き先は変わってくると思います。
  

 
 平和教育は、小学校高学年の修学旅行や社会の歴史などで取り扱っているように思うのですが、やはり高学年中心なのでしょうか。中学年や低学年で、もしやっているならどのようなやり方をしているのでしょうか。
 
回答: 歴史的なことは小学校の高学年以上でないと難しいのですが、低学年の子どもたちでも読み聞かせや、フォトランゲージ(写真を使った読み取り学習)などの手法は可能ですし、絵本やビデオから入っていく平和学習というのは十分できます。ただ、表現や発信までするのはなかなか難しいところがあるので、受動的な学習になりがちです。
 小学校低学年の間は、戦争があるとつらい、悲しい、嫌なことがあるのだということが心情的に分かっていたらいいと思います。学年が上がったときに、それなのにどうして戦争が起きるのだろうかとか、具体的にどんなことがあったのだろうかなどということに発展していけばいいのです。低学年の間は平和を好む心情を育めばいいので、絵本を使ったり歌を使ったりという方法であれば、さらに幼い就学前の保育でもできます。
 
 西宮市は小学校と中学校で平和教育に関して何か連携していることはありますか。
 
回答: 連携というのがなかなか難しい現状があります。中学校は完全に教科担任制です。人権の学習、道徳の学習とかをするときにはクラス担任がするということになって、専門性がだいぶ違うというのでやりにくいという話をよく聞きます。それと時間がどうしても限られてしまうのです。
 だから、社会の先生は社会の歴史の中で力を入れたりすることもできます。国語の先生は国語の文学教材の中で力を入れたりすることもできるけれども、例えば数学とか理科の先生というのはなかなかやりにくくて、学級活動の時間や道徳の時間にやろうとすると、教材研究がすごく難しくなるということを聞くことがあります。だから、中学校の場合は修学旅行に関連して平和教育ができれば時間も確保しやすいけれども、それ以外はなかなか進めていくのが難しいという話を聞くことが多いです。
 連携となると一段と難しくなって、小学校の修学旅行の行き先を踏まえて中学校の修学旅行の取り組みを考えることがあるという程度のことしか聞いたことがありません。中学校で平和教育に積極的な教師は、子どもたちが小学校でどんなことを学んでくるか常に気にしているのですが、残念ながら、有効な連携の例を聞いたことはありません。

 
 教科の中で平和学習をしようと思ったときに、どんなことに気を付ければいいのでしょうか。
 
回答: これはとても大事な視点です。平和教育の授業実践を持ちよって、いろいろ検討したりするときに、どうしてもその視点が抜けがちになってしまいます。こんなテーマを子どもに考えさせましたとか、こんな場をつくりましたというようなところが中心
になって、教科として、授業としてどうだったかという点がおろそかになりがちなのではないかという思いを持っているので、その視点はとても大事だと思います。
 例えば、前出の指導案Aは社会科・人権学習と書いています。社会科でいうと、地図を読み取る技能を身につけてもらいたいという目標があり、この時間には沖縄県の特色を地図を通して理解してもらいたいという目標があります。その「特色」の中で、沖縄の基地問題に気づくというのが平和教育、ここでいうと人権学習の部分ということになります。
 また、国語の時間には、こういうことを読み取らせるとか、あるいはこういう表現の技能を身につけさせるというような目標があった上で、平和学習としての目標がある、という二重のかたちが、教科の中で平和教育を行う場合には必要なことだと思います。

 
 最近の子どもたちが平和教育を受けてどのように考えているかということで何か感じることがありますか。
 
回答: 昔の子どもたちと今の子どもたちの感想がすごく変わっているということは特にないと思います。昔はこうだったのに今はこうというようなことはあまり感じませんけれども、どれだけ作文で文章を書く力をつけているかによっても変わってくることなので、ここに載せているのは、ほとんど5分以内ぐらいに書いているもので、なかなか文章としては練れていない部分があるのですけれども、逆にそのほうが生の声が出るかなということで取り上げて、こういう理解しかしていないから、こんなものにも出合わせようみたいなことを使ったりはしています。

 
 日本国内のこと、広島の原爆のことなどは取り上げやすいのですが、現在の海外の紛争などは、子どもたちには理解しにくいのでしょうか。
 
回答: 現在進行している事件を取り上げる場合、紛争当事国がいったい何を焦点にしているのか、何が問題なのかについて、教える側の理解がなかなか及ばないことがあります。情報が少なかったり、偏っているおそれがあったりして、ちょっと扱いにくいときがあります。
 ただ、いま起きていることというのは子どもたちにすごく分かりやすく迫るものです。2001年の9.11の事件のとき、4年生を担任していたのですが、とんでもない事件が起きたのは子どもにも分かります。そのあと、アメリカがアフガンに攻撃を行うというときに、果たしてそれが正当なのだろうかというのは議論が分かれるところだったので、子どもたちにもそのまま生のかたちで投げかけました。「こんな怖いことがあったね。それに対してこんな攻撃が始まったね。これはいったいどうなんだろう。」新聞などに、焼け出された子どもたちや、難民キャンプの子どもたちなどの写真が載っていると、自分と歳が変わらないような子どもたちがこのようになっているというのは、いったいどういうことなのだろうと考えさせてみる、そういうふうな学習をしました。

 さらにその担当したクラスは沖縄のことをよく学習していて、沖縄好きの子どもたちでした。9.11が起きたことによって、沖縄の観光客が激減するということがあって、沖縄県は「だいじょうぶさー沖縄」キャンペーンをしました。そういうものにも子どもたちを出合わせることで、アメリカの攻撃に日本の沖縄も無縁ではないことを感じていきます。その年は他国の子どもたちについて知ったことから、ユニセフの募金に協力しようということになりました。「2分の1成人式」(10歳時)という取り組みの一環で、大人の仲間入りの第一歩ということで何か社会に役に立つことをしようと考えたのです。4年生の子たちが街頭に立ち、ユニセフ募金のよびかけをしたということで取り組みをしたことがあります。

 現代の紛争は、内容が難しいですし、小学生には十分に理解できません。教師自身もどう判断するか、まだ流動的で分からないようなことはなかなか取り上げにくいですけれども、取り上げ方によっては十分、子どもたちが身近に考えることもできる題材ではないかと思います。

 教師の思想や歴史観や価値観の押しつけにならないようにというのは本当に大事なところだと思うのですけれども、平和教育の授業をつくるときに、そもそも何を題材にするとか、どう教えるかというところで自然に、教師の価値観や思想が入り込んでしまうのではないのでしょうか。
 
回答: 価値観の押しつけにならないように、押しつけをすべてゼロにしてしまうと、教育は成り立たなくなるといえるでしょう。ですから、一定の教育のレール上に乗っていながら、なおかつ教育の手法として子どもたちに押しつけたりしないようにすることを大事にしていくことが必要だと思います。

 学習指導要領がありますが、実際の授業の場面で何を取り上げて、どういうことを子どもに語っていくかというのは、一定の範囲内で教師に委ねられている部分があります。戦前はそれがあまり委ねられていない時代もありました。教科書が国の中で国定教科書1種類しかなくて、違う教え方は許されない時代がありました。それがどういう方向に人々を導いていったか。戦争をして、国中が焼け野原になるような方向に進んでいったということを考えたときに、やはり教師が一定のフリーハンド(教材についての裁量権)を持っていることが絶対に必要だと思われます。そういう意味で押しつけはしたくないけれども、子どもたちを何に出会わせるかとか、どんな方法で学んでもらいたいかというのは、やはり教育主体として教師に委ねられるべきではないかと思われます。

 
 平和教育をするにあたって気を付けなければならないこと、偏見を生まないために、こういうところは気を付けておくべきというところがあれば教えてください。
 
回答: 気をつけるべきことは多いと言えます。世の中にはいろいろな考え方の人がいます。例えば広島で原爆の被害を受けた方の写真について、こういう悲惨なものは子どもに見せるとショックを与えるだけだからだめだ、という考え方があります。一方で、そういうものをしっかり見ないといけないという考え方もあります。私はあまり強制しないで、「資料館に行くの怖いわ」と言っている子がいたら、「無理には見なくていいよ。でも、そんなに怖くない資料もいっぱいあるから、まず入ってみて、ここは怖いと思ったら目をふさいで通っても別にいいんだよ。あとで大きくなって、また見ようと思ったら、見たらいいんだよ。」などと言います。このように、意見が大きく分かれることというのは、こちらが押しつけるようなことは絶対してはいけないと思います。

 写真資料で信憑性が疑われるようなものとか、個人の体験談のような一方からの見方でしかないような資料を使いたくなるときもあります。そういう資料を全く使わないようにしようとすると、生き生きとした説明ができなくなってしまうおそれがあります。ですから、これはある人の感じ方だけれども、このように感じた人がいるよとか、この写真はちょっとどういう状況か分からないところもあるけれども、その当時の写真だよみたいなかたちで、留保条件というか、子どもが決めつけてしまわないような説明をしながら取り上げることも必要かと思います。

 意見が大きく別れる問題については、一方の考え方だけを紹介するのではなくて、両方の考え方を紹介した上で、「君たちはどう思う?」という問いかけを子どもたちに投げかけるというように、バランスをとる必要があります。これは子どもたちに教えたい、出合わせたい、ということがらがあるときに、異なる意見もあるのならば、それも含めて出合わせることが必要であるということです。この社会に存在する問題は、たいていの場合、立場によって違う意見が存在します。平和教育のように、自分で課題を設定して学習を進める場合、異なる意見に対する配慮というのは必要不可欠なものだと言えます。


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