1.平和教育がなぜ必要ですか |
1)平和の 理念 |
1)平和の理念
日本は第二次世界大戦において悲惨な戦争を行い、国民は平和の大切さを身をもって体験し理解しました。戦後の日本は、国民が努力して「平和国家」として生まれ変わりました。日本は戦後長く安定した民主主義国として、世界の平和と発展に寄与しており、国内でも基本的人権を守る努力が続けられてきました。そのかいあって、日本は文化的にも経済的にも豊かな国として、世界で認められるようになりました。
「平和」は、敗戦後の日本が、国内だけでなく国外でもその実現に向けてがんばってきた大切な理念です。もちろん平和は、日本だけでなく世界の国々が追求し達成すべき理念です。現在の国際社会において、平和は人類が共に目指す普遍的価値の一つと言えるでしょう。
それでは、平和の達成はどのようにして可能になるのでしょうか。まず、紛争や争いの最中には、平和(の状態)は争いを止めて創り出さなくてはいけません。それを平和創造(Peace Making)といいます。次に、争いが止まった平和は人々の友好と力のバランスでやっと保たれており、不安定なものなので放って置けば再び争いに逆戻りします。そのため、関連する人々が努力し続けないと、平和な状態は維持できません。それを平和維持(Peace Keeping)といいます。けれども、争いや戦争が無いだけの平和ではまだ不十分であり、よりよい平和な社会に近づいていくために*1、平和をつくる必要があります。それを平和形成とか平和構築(Peace Building)といいます。
平和はみんなにとって大切
日本国内に住んでいる現在の私たちにとって、平和は普通のことで、空気のような存在で目に見えにくいです。しかし、人類の歴史においては、部族・民族や宗教間での争いや戦争があり、その一方で平和な集団関係が求められてきました。この「平和」の言葉が意味する対象は、小さくは心の内の平安から、家族や友人間の親和的関係、学級内や学校内などの平穏な落ち着いた関係があります。平和の対象をさらに広げて、地域社会の安心である治安、県や国レベルの大きな地域での安全や安定、そして近隣国との友好的関係、最も大きくは世界全体のレベルでの国際平和があります。人々が関わるどの対象レベルにおいても、平和が大切でないと公言する人はいないでしょう。
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2)戦争の 教え方 |
2)戦争の教え方
第二次世界大戦後の日本では、悲惨な戦争体験と被爆体験を継承することにより、子どもたちに核兵器がもたらす脅威に着目させ、戦争に反対し平和を希求する態度を育てようとしてきました。日本では、戦争を絶対悪としてとらえる平和主義的な戦争観が多くの人々に支持されており、「戦争を否定する題材」*2による平和教育が多くなされてきたことによって、反戦的な平和意識が人々に形成されてきたといえます。
原爆による市民の無差別的な被害状況がよく知られている日本では、原爆投下は人道上許せない過ちであるとの考えが強く、過去および未来の核兵器使用を正当化することに反対です。
平和教育において、日本の戦争被害が多く教えられてきた一方で、戦争加害が適切に教えられていない側面があります。戦争被害については体験者からの証言を見聞きすることが多いですが、戦争の加害についてはあまり伝えられてきませんでした。今の子どもたちの中に、日本が第二次世界大戦での一番の被害国だと思う者が多く、また日本が行った戦争加害について詳しく知っている者は非常に少ないです。日本の子どもたちが学ばなくとも、戦争加害の事実は歴史的事実としていつまでも残るわけで、学校教育の中で史実に基づいて教えることが重要といえます。戦争の被害と加害の両面を伝えることにより、自国の歴史を客観的に評価する学習機会を与え、子どもたちに歴史を見る目を公正なものにしていく必要があります。
平和な社会をつくることが平和教育の目的ですが、戦争や原爆について知るだけでは、平和な社会を形成することはできません。子どもたちが戦争の恐ろしさを知り、戦争被害者に我がこととして同情することは、平和教育実践を進める土台となります。その上で平和教育の課題とされるのは、戦争についての知識と戦争被害者への共感が、子どもたちの想像力豊かな社会参加の態度と技能に結びついていくことです。
戦争体験者の減少
2015年は第二次世界大戦後70年目でした。終戦時に10歳以上だった戦争体験者は80歳以上となり、徴兵されて兵士として戦った当時20歳の男性は90歳となりました。今から生まれる子どもにとって、戦争体験者は曾祖父母の間柄となります。ひい孫が、曾祖父母から話を聞く機会は少ないといえます。つまり、日本の戦争体験について体験者から直接聞く時代はもうすぐ終わろうとしています。平和教育において日本の戦争体験の継承は、最重要な学習課題です。しかし、子どもたちの多くは、第二次大戦の戦争体験を自分たちにはあまり関係のない昔話や思い出話としてしか聞いていません。そうした今の時代状況において、戦争を知らない教師たちは、平和教育をどのように行えば良いのでしょうか。
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3)平和教育 の歴史的 流れ |
3)平和教育の歴史的流れ
日本の平和教育は、次のような歴史的な流れの中で行われてきました。
@日本の敗戦直後に、連合国の占領軍が、戦前の皇国主義・軍国主義教育の撤廃を命じます。軍部が導いた戦前の軍国主義教育に対して、占領軍がその廃止を求め、占領期に教育の民主化政策が進められ、民主主義の教育が始まります。社会科教科書に戦争の記述が多くありました。
A日本国憲法(1946.11公布)と教育基本法(1947公布)による戦後の教育法制の下に、平和と民主主義のための教育が国民に浸透していきました。日本国憲法の平和主義の理念に基づき、国際平和に日本が貢献することが国是とされ、1960年代まで平和的な社会及び国家の建設を進めてきました。
B1970年代に入って、被爆体験や各都市の空襲体験を伝える平和教育が広がります。広島と長崎を発信源として、被爆体験の継承がさきがけ(魁)となり、平和教育実践運動が全国に広がりました。1980年代をピークとして戦争被害体験を継承する平和教育実践が行われました。
C1990年代は、ポスト冷戦時代となり、核戦争が起こる危険性が低下しました。そのため、核軍縮の課題から離れて人権侵害や環境破壊といった国際的課題に対応しようとする視点が、平和教育の中に広がってきました。海外では戦争がないだけでは不十分とする「積極的平和」を教育内容とする「包括的平和教育論」*3が展開します。
D2000年代以降は、グローバル化がさらに進展する中で、人間社会の経済的発展は有限であることへの理解が深まり「持続可能な開発のための教育(ESD)」の考えが平和教育の中に入ってきました。
上述のように、戦後の日本の平和教育は、第二次大戦への反省から戦争体験の継承を中心に行われてきたといえましょう。戦後70年が経過したとはいえ、第二次大戦での敗戦とそれからの復興が、戦後の日本が発展する基礎となり、今の日本の繁栄につながっていることが変わることはありません。しかし、過去の戦争体験が日本の人々の社会意識に及ぼす影響力は年数の経過とともに減っています。日本の学校において、教師の全員が戦争体験を持っておらず、教師にとっても戦争体験は過去の歴史になりつつあります。
第二次世界大戦後の日本は、戦争や紛争に直接的には巻き込まれたことが無く、世界の中では極めて「静穏な地域」*4に分類されます。日本のような「静穏な地域」における平和教育の課題は、子どもたちに外国の戦争や紛争に関心を持たせると同時に、国内外での平和形成に参加する人をどう育成するか、にあります。
教育基本法
2006年に改正された教育基本法の第1条(教育の目的)によれば、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。(下線は筆者)」とあります。
このことから、今後の教育に必要とされるのは、平和で民主的な国家及び社会を形成する活動に、参加する態度や技能を子どもたちに育てることである、といえるでしょう。これは平和教育の目的と重なるものです。
フクシマ以後の平和教育の課題
2011年3月11日の東日本大震災で起きた津波被害に誘発され、3月12日に水素爆発に至った福島第一原子力発電所事故によって大規模な放射能汚染が起こりました。原発事故によりそれまでの原発安全神話が崩れ、原子力発電に対する批判的な世論が広がっています。福島原発事故は、ヒロシマとナガサキに焦点化した「反核兵器運動」を行ってきた平和運動においても運動方針が見直されました。平和教育実践においても、核エネルギーの平和利用に無批判的であった平和教育実践のあり方を見直し、福島での放射能汚染事故を視野に入れることが新たな課題となっています。
世界終末時計(Doomsday clock)は、核戦争等による人類の滅亡(終末)を午前零時になぞらえ、人類滅亡までの残り時間を「滅亡する零時まであと何分残されている」という形で、平和問題に取り組む必要性を世界の人々に訴えています。その時計は、核兵器拡散の危険性が増大したことや、福島第一原子力発電所事故が起きたこと、世界の環境変動への対策が進んでいないことなどを受けて、2012年に1分進められて滅亡の5分前の時刻でした。2015年に、気候変動や核軍備競争によりさらに2分進められ、現在は人類滅亡の3分前の時刻となっています。(2016年3月現在)。これは米ソ間の核軍拡競争が激化した1984年から1988年の間の3分前と同じ水準です*5。
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4)子どもが 主体の 教育方法で |
4)子どもが主体の教育方法で
平和教育のあり方として、教育方法そのものが「平和的であるべき」とされます。教育方法が平和的であるとは、強制的、威圧的、抑圧的などの権威主義的な教育方法を教師がとらず、子ども一人ひとりの個性や感性と人権を尊重した教育方法を用いることです。言い換えれば、平和問題を題材として授業で取り扱っていても、そこでの教育方法が権威主義的で、頭ごなしの教化のようなものであれば、それは平和教育とはみなせません。
教える方法として、子どもの思考や判断や表現を大切にする方法が望まれます。従来の平和教育では、教える側が望ましいと考える「平和的な」資質を育成するために、その手段として戦争と平和の問題について認識を与えてきた、といえます。つまり、「平和な」社会の実現のために望ましいと教える側が考える方向に向けて、都合のよい平和・戦争題材を取り上げて、都合の悪いものは取り上げないという傾向も見受けられました*6。
平和教育のあり方について考える場合は、「教育における平和」も視野に入れる必要があります。その考えでは、子どもたちがいる教室や学校において、命を大切にする、いじめや校内暴力がない平和的な状況(場)を形成しようとします。例えば、思いやりを大切にする、いじめや暴力を許さない仲間づくりを行います。相手を非難・中傷することがない暖かい教室の風土を作ります。自由で明るい学校現場を作ることが、「教育における平和」であり、平和教育の授業を行うための「場づくり」といえます。
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授業とは、学校において学級を単位とし、教師が子どもを対象に、教材を通じて知識や技術等を習得させ、態度の育成を行うこと、ということができます。それでは、平和教育の学習領域において、授業のつくり方を考えてみましょう。平和教育の授業方法については、実践編の3章と4章で、授業のつくり方と実践事例を紹介します。下に、授業づくりの手順モデルを示します。 【授業づくりの手順モデル】 @授業の目標(めあて・ねらい)を立てる A授業の時間枠を確保する B子どもの学習実態・生活状態に応じて、授業内容を構想する。 C子どもの発達段階に合わせて授業内容・方法を構成する。 D素材の教材化 →教材の選択、分析、構成、作成(ワークシートなどを作成) E教育方法の選択 (一斉指導、グループ・ワーク、個別学習の利用) F学習指導案の作成(学習目標、学習活動・主な発問、子どもの反応、支援・評価等の検討) |
学習指導要領に「平和教育」という用語が明示されていない現状においても、学習指導要領に基づいて平和のための授業を進めていくことができます。いくつかの市や県では平和教育の指導資料が発行されています。なお、各学校で平和教育を実践するために、平和教育への多様な公的支持を利用することができます。それらのいくつかは、平和教育を実践するための拠り所や根拠にすることができます。 それでは、平和教育の分野(教育領域)において、どのような公的支持あるいはオーソライズが*7、平和教育の発展を促してきたのでしょうか。また、平和教育の発展の成果としてどのような「公的支持」がなされているのでしょうか。表1は平和教育に関する分野別公的支持を、地理的な段階(地域、国内、世界)ごとに、指標(めじるし)として分類したものです。
平和教育実践の広がりの成果としてどのような「公的支持」が行われてきたのでしょうか。表2は歴史的視点から平和教育に関する公的支持の指標(事例、事項)を集めたものです。平和教育への公的支持を順番に並べると、時系列的な展開を知ることができます。平和教育実践の根拠として並べられる事項として、何が利用できるかを鳥瞰的に見ることができます。 日本の地域レベルで、平和教育の先進地を見ていきましょう。都道府県や市町村によって平和教育の取り組み内容が異なります。平和都市宣言の実施、非核都市宣言自治体連絡協議会への加入、平和モニュメントの設置、平和事業の予算化、などの公的支持の指標を多く持つ自治体を「平和教育先進地」ということができます。全国の地方自治体において、非核宣言率2014年3月現在は88.2%です。京都府の場合は96.3%(26/27)、大阪は100%(44/44)です。
国内においては、平和学習の修学旅行先である広島市、長崎市、沖縄県には、平和博物館が開設されており、平和記念碑が多数設置され、市あるいは県の教育委員会により「平和教育の手引書」などが発行されています。この3自治体はいずれも平和事業費の規模が大きく、表2で示した公的支持の事例が多くあります。沖縄県では毎年6月23日が沖縄戦の「慰霊の日」に設定されており、沖縄県下の公立学校は休校となります。上記3自治体以外の「平和教育先進地」としては、兵庫県、神奈川県、大阪府内にあるいくつかの市*8が該当しているといえます。
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分野 | 地域 | 国内 | 国際 |
法律・宣言 |
条例、平和都市宣言 |
憲法、法律、最高裁判決、国会決議 |
憲章、条約、宣言、国連決議、国際司法裁判所判決 |
政策 |
平和啓発事業、専門部局や課の設置、指針・手引き書 | 公的事業、学習指導要領、指針、首相談話、首相の演説・式典出席 | 国際勧告、国際年、国連10年 |
研究 |
大学の研究科・学科・講義、研究所・研究センター | 全国学会、全国研究会、全国研究協議会 |
国際研究誌 |
実践・運動 |
資料館、記念碑・メモリアル | 全国誌、スローガン、資料館、記念碑・メモリアル | 国際機関(国連、ユネスコ等)、国際NGO |
行事 |
大会、シンポジウム、祭典、授賞 | 全国的大会 |
国際会議、国際的な授賞 |
地域 | 国内 | 国際 | |
1940 年代 |
1947.8 広島で平和祭式典(第1回)を開催(1951年から「平和記念式典」、1968年から「平和祈念式典」) |
1946.11 日本国憲法の公布 1947.3 教育基本法の公布・施行 1949 広島平和記念都市建設法を国会議決 1949 長崎国際文化都市建設法を国会議決 |
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1950 年代 |
1950 京都府綾部市が日本で初めて「世界連邦都市宣言」 1955.8 広島平和記念資料館の開館 1955.4 長崎国際文化会館(現長崎原爆資料館)の開館 1957.10 京都市が「平和都市宣言」 |
1951.1 日教組のスローガン「教え子を再び戦場へ送るな」(日教組中央委員会の決議) 1951.10 長田新編『原爆の子』 1952.8 朝日新聞社『アサヒグラフ、原爆被害初公開』 1954.7 防衛庁が設置され自衛隊が発足 |
1951.9 サンフランシスコ講和条約の調印 |
1960 年代 |
1966.7 広島市議会、原爆ドーム永久保存を決議 1968.7.2 広島市教委が市立学校に平和教育の導入を決める(『原爆教育の手引き』の作成検討へ) 1969 広島県被爆教師の会の結成 |
1967.12 非核三原則を政府が表明(衆議院予算委員会で総理大臣による初の言明) |
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1970 年代 |
1972 広島市教育委員会『平和教育の手びき(小学校編)第一次試案』 1973 広島市教育委員会『平和教育の手びき(中学校編)第一次試案』 1974 沖縄県慰霊の日を定める条例(慰霊の日は6月23日) 1974 広島平和音楽祭の開催(−1993年) 1975 沖縄県立平和祈念資料館の開館 1976 第五福龍丸展示館の開館(東京) |
1971 原爆被爆教師の会全国連絡会の結成 1971 天皇、皇后が原爆慰霊碑に参拝 1971.8 佐藤首相が内閣総理大臣として初めて広島平和祈念式典に出席 1972.5.15 沖縄返還(本土復帰) 1973 「はだしのゲン」が週刊誌で連載開始 1974 佐藤元首相がノーベル平和賞を受賞 |
1974 「国際理解、国際協力及び国際平和のための教育、ならびに人権及び基本的自由についての教育に関する勧告」(ユネスコ国際教育勧告)をユネスコ総会で採択 1976 「ドイツ連邦共和国とポーランド人民共和国の歴史及び地理の教科書に関する勧告」(西独) |
1980 年代 |
1982.3.25 広島県府中町が日本で初めて「非核町宣言」 1985 核兵器廃絶広島平和都市宣言 1989 ひめゆり平和祈念資料館の開館(沖縄県) |
1982 平和市長会議が広島市長の呼びかけにより発足 1982.10 軍縮教育の国際シンポジウム(WTO:世界教職員団体連合)を広島で開催 1983 アニメ「はだしのゲン」が公開 1984 黒柳徹子がユニセフ親善大使として活動開始 1984.8 非核都市宣言自治体連絡協議会が発足 1985 杉原千畝がイスラエルのヤド・ヴァシェム賞を受賞 |
1981 ユネスコ平和教育賞の授賞開始 |
1990 年代 |
1990 東京都平和の日条例の制定(3月10日) 1991 大阪国際平和センター(ピースおおさか)の開館 1992.5 立命館大学国際平和ミュージアムの開館 1993 沖縄県教育委員会『平和教育指導の手引き』 1995.6 「平和の礎」除幕式(沖縄県) 1995 ながさき平和の日条例(ながさき平和の日は8月9日) 1995 北谷町民平和の日を定める条例(北谷町民平和の日は10月22日) |
1992.7 第14回国際平和学会(IPRA)大会が京都で開催 1995.8 村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」を発表 1996.12 原爆ドームをユネスコ世界遺産に登録 |
1996.7 国際司法裁判所が「核兵器使用・威嚇は一般的には国際法に反する」との勧告的意見 1998 ハイファ大学に平和教育研究センターの設置(イスラエル) 1999 ハーグ平和アピール「21世紀への平和と正義のための課題」を採択(オランダ) |
2000 年代 |
2002- 沖縄平和賞の授賞開始 2003 大阪府教育委員会『平和教育に関する事例集』 2004 対馬丸記念館が開館(那覇市) 2004 兵庫県教育委員会は通知文書で、総合的な学習の内容の1つとして「平和」を例示 2006.3.20 しょうけい館(戦傷病者史料館)が開館(東京都) 2006 広島市教育委員会は「平和教育の指導資料」を市内全小中学校の校長に配布 2009.3 京都市が「平和市長会議」に加盟 |
2002.8 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館 2003 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が開館 2006.12.15 改正教育基本法が可決成立 |
2000 「平和の文化国際年」 2001−2010 「世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化国際10年」(平和の文化の10年) 2005-2014 「国連持続可能な開発のための教育の10年」 |
2010 年代 |
2011 広島市が平和教育プログラム(試案)の骨子公表 2012.3 滋賀県平和祈念館が開館 2013 広島市教育委員会が、平和教育プログラム指導書を作成、併せて『平和教育ノート』を広島市内の児童生徒に配布する。 |
2011.3 東日本大震災、福島原子力発電所事故で放射能汚染が起こる 2015.6 公職選挙法の改正で18歳以上に選挙権 2016.1 天皇、皇后がフィリピンを親善訪問 |
2010 劉暁波(中華人民共和国)がノーベル平和賞を受賞 |
*1「積極的平和」とは、戦争がない状態の成立だけでは平和にとって不十分とみなし、貧困・差別・不公正がないより積極的な平和の状態を形成しようとする平和の概念です。*2 戦争を否定的に教える題材には、次のようなものが含まれています。家族・友人・知人との死別や離別、食糧不足と栄養失調死、戦闘・空襲による身体的障害と後遺症(放射能障害も含む)、精神的障害、家族離散、戦場の惨めさや残酷さ、不十分な医療、個人の夢や自己実現が不可能になること、空襲により動物園から危険な猛獣が逃げ出さないように事前に猛獣の処分(殺害)、残留兵器による事故(機雷、地雷、不発弾、毒ガス弾)、外地での抑留や引き揚げ、アジア諸国への侵略行為、労働者の強制連行などです。*3 「包括的平和教育」とは、平和問題をできるだけ広い視点から包括的に捉え、より望ましい地球的社会秩序の形成をめざして、平和問題をより広くかつ深く子どもたちに理解させようとする平和教育概念です。
*4 Baruch Nevo and Iris Brem 2002, "Peace Education Programs and the Evaluation of their Effectiveness:" by Salomon and Nevo eds., Peace Education: The Concept, Principles, and Practices.
*5 世界終末時計は、2010年には、バラク・オバマ大統領による核廃絶運動を受けて、6分前に戻っていました。戦後において世界が最も危険とされたのは、アメリカとソ連が水爆実験に成功して核戦争が危惧された1953年から1960年の間で、時計の針は2分前でした。現在の3分前は、それに次いで人類滅亡までの残り時間が少ないと評定されています。
*6 小原友行 1995、「社会認識教育としての『平和教育』」『教育科学 社会科教育』409、を参照した。
*7 オーソライズとは、社会的な意義を公認するとともにその後の実践の根拠となる、と規定される(上杉孝実他編著 2013、『人権教育総合年表−同和教育、国際理解教育から生涯学習まで』4頁)。