★ 2006年の12月12日の夕刊に、ちょっと意表を
突かれる記事が載っていました。
訃報欄なのですが、見覚えのある写真が添えら
れています。
「苦痛にたえながら手当ての順番を待つ母子」
と題された写真です。
さまざまな原爆資料や写真集に掲載され、紹介
されているので、
見たことのある人も多いでしょう。
ここに写っている母親 田中キヲさん が
亡くなったという記事が載っていたのです。
★ 原爆の写真というと、過去のこと、歴史上のことと
とらえてしまいがちですが、
この母親は、これまで戦後の日本を生きてこられた
のです。
私たちと、同じ時代を、同じ社会に暮らしておられた
のです。
被爆から60年以上の時が流れましたが、ヒロシマ・
ナガサキは、過ぎ去ったことではなく、いまの問題なのです。
訃報に接して、あらためてそのことを認識しました。
この田中キヲさんの写真で、平和学習をしませんか。
防空壕へ
お母さんとじいちゃんはお互いの背中の火を消しあいました。二人とも背中や腰にやけどをしていました。家に走って戻ると、近所の奥さんが義博くんを抱えて出てきました。台所まで吹き飛ばされていた義博くんは、顔や身体に木の葉や泥がこびりついて、全身が真っ黒でした。頭のてっぺんからは血と黄色いウミが出ていて、呼吸もしているかどうかわからないぐらいゆっくりで、意識はありませんでした。
「義博!目を開けんね!」さかんに声をかけましたが何の反応もありません。頭に何枚も手ぬぐいを巻き付けて血を止め、お母さんが抱いて崖の下の防空壕に避難しました。服がボロボロに破れて髪の毛がチリチリに焼けた長男と、顔の左半分にやけどをして左目が腫れてふさがり、頭がチリチリの5歳の長女は、じいちゃんが防空壕に連れて行きました。地面は熱いし、このころになると背中も激痛がしはじめて、お母さんはよろけるように歩いていきました。防空壕で、お母さんは背中のやけどの痛みで眠れない一夜を過ごします。
翌日の10日、家が焼けてしまったお母さんたちは、近くの道ノ尾駅のそばの臨時救護所に向かいました。地面はまだ熱く、立ち止まると足の裏が痛いほど。馬の死骸、首のない死体、黒こげの死体が折り重なっていますが、その死体の山を乗り越えて歩きました。死体が、あまりにもあちこちに転がっていると、逆に何も感じなくなってしまうそうです。お母さんたちは、異常を異常とも感じられない、あとで思い出すと、まるで人間ではないような感覚になっていたのです。
戦後のお母さん
防空壕に戻ってからは背中のやけど治療のため、うつぶせのまま寝たきりで過ごしました。長男は、食べることも水を飲むこともできなくなり、12日に亡くなりました。義博くんも21日に、兄を追うように亡くなりました。お母さんは、ただ泣くばかりで、葬式にも出られないほどでした。
一ヶ月ほどの防空壕生活の後、掘っ立て小屋を建てて暮らしました。翌年の春頃に、ようやく一家が住める家ができました。戦後、お母さんは、工場で働くお父さんを助けて農業の仕事をし、子どもも4人生まれました。生まれた子には、亡くなった子から一文字取って名前をつけました。お母さんには、生まれてきた子が原爆で死んだ子の生まれ変わりのように思えました。死んだ子のことは、何年たっても忘れられません。
お母さんは、毎日坂道を上り、畑の土をいじり、無農薬の野菜を育ててきました。一日中、あの夏の日と同じようにかがんで仕事をしたきたせいか、すっかり腰も曲がってしまいました。80歳を越えたお母さんは、いまは、八人の孫たちのおばあちゃんです。自分で育てた野菜を、喜んでくれる人たちに売り歩いて元気に暮らしています。
おばあちゃんは、言います。
「原爆のことは思い出すのもいやです。忘れてしまいたいですと。だれにも話したくもありません。
ただ、8月9日の慰霊祭のときだけは、市内まで出かけて二人の息子のためにひたすら祈るとです。
『ゆっくり眠りなさい』とね……。
でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとです かな。今でも世界のあちこちで殺しあいしとるでしょう。本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ。」
そう話していたおばあちゃん、田中キヲさんは、被爆のあと61年間を生き抜き、2006年12月9日、肺炎のために91歳の生涯を閉じました。
【参考図書】
加世田智秋編「それぞれの、夏」
祥伝社文庫 2001
ナガサキのお母さんの話
このお母さんは、あの8月9日、朝から、家の前の田んぼでじいちゃんといっしょに草取りをしていました。家では8歳と5歳と4ヶ月の3人の子どもが遊んでいました。お父さんやおばあちゃんはよその町に出かけていました。まだ赤ちゃんの義博くんは、籐のかごに入れて縁側に置いていました。庭で上の二人が遊んでいるのがお母さんからも見えるので、安心して働いていました。
朝から30度を超す暑さで、しゃがんで草取りしているだけで、額や背中にまで汗が浮き出てきます。お母さんは、何度もそでで汗をぬぐいました。
突然、パーッとまわりが白く銀色に光って、すぐにものすごい音と風が吹きつけてきました。背中全体で爆風を感じたお母さんは、からだが浮き上がるようになって、前に吹き飛ばされて転がりました。近くに爆弾が落ちたのかと思いました。しばらくうずくまったまま、おそるおそる顔を上げると、あたりはうす暗くなっています。お母さんは、頭にかぶっていた手ぬぐいも飛ばされたまま、しばらくボーッとしていました。ふと気がつくと家の屋根がボウボウ燃えているのが見えました。いっしょに働いていたじいちゃんも、すこしむこうでぼうぜんとすわっていました。「あら、じいちゃんの背中が燃えようが」とお母さんが言うと、ふりかえったじいちゃんも「お前の背中もくすぶりよるがね」と、言います。二人でおたがいの背中をひとごとのように見ていました。不思議と、痛みは感じなかったのです。いったい何が起こったのか分かりませんでした。
臨時救護所で
臨時救護所には、昼ごろ着きましたが、座る場所がないほど人でいっぱいです。あとからあとから避難民が押し寄せて、立ったままで治療の順番を待つしかありません。医者も看護婦も少なく、実際に手当てを受けられた人はそう多くありませんでした。薬も満足にはなく、手当てといっても、やけどの薬のチンク油を塗るぐらいのものです。義博くんを抱いたお母さんは、たまたまムシロの上に座ることができ、ぐずつく義博くんにお乳をやっていました。義博くんは丸裸で、顔には血の筋がこびりつき、ぬぐっても落ちません。お母さんのお乳をしゃぶってはいますが、吸う力もなく、自分の力で飲み込むことができませんでした。
その時、突然に「写真を撮らせてください」と声をかけられたのです。恥ずかしいとか考える余裕もなく「はい」と答えたお母さんは、義博くんの頭から流れる汗をぼんやり眺めていました。
★写真を撮ったのは、陸軍のカメラマンの
山端庸介という人です。
原爆投下の知らせを聞いて
博多からかけつけた山端さんは、
被爆直後の長崎の惨状を数多くの
写真に残しました。
読売新聞の記事