最終更新日 2011.7.13


学生による「本を読んで考えたこと」
2000年度:『二十四の瞳』『世界の教師』『兎の眼』『素直な戦士たち』『窓ぎわのトットちゃん』『大学では教えない教師の基礎常識』『教師−自己の伸ばし方磨き方』『教師はどこを見られているか:教職活動十戒』『教師のやりがい子どもの学びがい』『これだけは知っておきたい教師の禁句、教師の名句』『プロ教師の生き方』『教師の実力とは何か』『中学校・高校教師になるには』『教師と子供のポートフォリオ評価』『子供を喰らう教師たち

学生による印象に残った本の紹介:
1999年度:『ヘレン・ケラー伝記』『アンの青春』『太陽の子』『アルジャーノンに花束を

村上による本の紹介
戦争の教え方−世界の教科書に見る−』『子どもたちが地球を救う50の方法』『23分間の奇跡愛するということ


村上執筆の論文と本について
戦時下の京都師範学校の教育−1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として−
『戦後日本の平和教育の社会学的研究』2009の正誤表


学生による「本を読んで考えたこと」:
2000年度「教職の研究」の受講生

壺井栄『二十四の瞳光文社、1954(新潮文庫、1986)
W.I.:0年度生
 私は「二十四の瞳」を小説でも読みましたが、田中裕子主演の映画でも見ました。私がこのお話を通して考えることは教師と子どもと、そして地域との関わりあいです。大石先生が初めて岬の分教場へやってきた頃、大人たちは自転車の乗る大石先生のことを受け入れようとはしていませんでした。しかし、話が進むにつれ、子どもを通して大人たちが先生を受け入れているのです。また子どもが自分の家庭のことについて、自分の夢について、そんなことを先生に話す様子がいくつかあります。こういったことは信頼関係があってこそだと思います。しかし、教師と子ども・地域との信頼関係は友達とのそれとは違うものだと思います。築いていくためには子どもと喜びや楽しさ、そして悲しさを共有することが必要だと思うのです。これを日々実践すること、こう言えば義務のようになってしまいますが、そうではなく自然とできる、それが教師に求められるのではないでしょうか。私はこのような心の大らかな教師になりたいと思うと同時に、このような人間を目指していきたいと思いました。

平塚益徳『世界の教師帝国地方行政会、1967
M.T.:01年度生
 私は今の日本の教育の現状を、今様々な講義で聞かされたり、考えさせられたりしていますが、どの教授も現状は当てることが出来るにせよ、解決策となると誰もが口を閉ざしてしまいます。私は、正答であるかどうかにこだわらず、自分なりの答えを見つけるため、日本の教育とは違った教育を見て、その違いから何か学べるのではないだろうかと思い、この本を読みました。
 この本を見て思ったのは、外国の先生は授業以外で生徒に接する機会が多いんだなあということを思いました。日本の生徒は家で過ごす時間の次に学校で過ごす時間が多く、約8時間の拘束を受けるのですが、そのうち、先生と授業で接していない時間なんて取るに足らないと思います。この違いが、この授業以外で先生と生徒が接する時間が、日本の教育にも必要なのではないでしょうか。

灰谷健次郎『兎の眼新潮社、1974(新潮文庫、1984)、
S.E.:0年度生
 この本を読んでいると、なんだかとても温かい気持ちが湧き起こる。先生と生徒と、先生と親。といった人間関係の繋がりの深さ、大切さに気付かされた。先生はあくまで公務員であって、自分の感情まかせで行き過ぎた行動をとってはいけないというのが、当然のような考えとしてあるなかで、この話の中の先生はなんて生き生きとしているのだろうと思った。全てをすぐに分かる人はいない。けれど、それを分かろう、探ろうとする。
 そういう、子供の頃に持っていたような気持ちを、どこかで持っていなければ人間すぐにダメになってしまうのではないだろうか。自分の思ってもみないこと、経験したことのないことを、突如として目の前に出されたら、誰でも、一歩ひくだろう。けれど、そこからが本領発揮となるのだ。
 先生に限ったことではないが、先生なら、なお一層そうすることが望ましいのだ。本当に子供というのは、大人以上に一人一人が違って、その度に心を悩まさなくてはいけなくなる。けれど、ここで大切なのは、個性のある子供に振り回されてはいけないということだ。子供の心をうまく掴むことと、子供に振り回されて一見仲良さそうに見えるのは大違いだと思う。私が一番に思ったのは、いろいろな経験をした人は本当に強いのだと思う。良いにしても悪しきにしても、いろんな経験をした人が教師であれば、子供も学校も変わるのではないだろうか…。

城山三郎『素直な戦士たち新潮社、1978(新潮文庫、1982)
K.T.:0年度生
 英一郎という少年を東大に合格させるために徹底的に教育する家族の話である。最初はただ、いきすぎた教育で英一郎がかたくるしくてかわいそうだと思っていたが、読みすすむにつれ現代の「きれる子ども」たちの様子を見ているような思いがする。最後にはライバルで目ざわりな弟をも殺そうとまで考えてしまう。勉強しかなくその勉強で弟に劣るなら何が英一郎に残るのか。
 親の願いは勉強によって将来どんな仕事につける自由人に育てたいと思っていたようだが、その願いとは裏腹に勉強だけによって英一郎の他の可能性をつみとってしまったのではないか。教育の理論に基づいて教育することは悪いことではないが、子どもは一人ずつが違う。その各人にあった教育があると思う。理論は参考程度のものでよかったのであろう。
 この作品で皮肉なのが、親があまり手をかけず自由に育てたはずの弟がぐんぐんと実力をつけ、様々な点で最終的に兄より優れていたことだ。親の努力が無駄になってしまったようだ。

黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん講談社、1981
S.E.:0年度生
 作者が危惧していたように、この本は『「この競争社会の中でこんな夢みたいなこといったって、仕様がないじゃないか!!」という現場の先生たちの反論があるのじゃないか?』というギモンのようなものも、与えかねない本だった。逆に、読んだすべての先生たちに、人を教育することの難しさを考えさせずにいられない本でもあった。
 私が、先生になった時、主人公のような、問題児といわれるような子供と、どう接したらいいのか、また、うまく対応できるかと自問してみたが、私には無理であるとも初めから分かっている気がする。教師とは、誰よりも、何よりも優れた者がなるべきで、人格(人柄)なども天性のようなものが必要だと思う。そんな人が初めて人を教えるという資格をもつとも。とても自信を失わせる本だった。感動を覚えたのは間違いないにもかかわらず、“教科書”として読んでしまったため、先生になるという気持ちが、へったといえる。

関根庄一『大学では教えない教師の基礎常識労働教育センター、1983
N.K.:0年度生
 改めて教師になりたいと思った。それも「学校」の教師に。塾や予備校の講師は、ただ勉強を教えればよい。生徒の生活、又内面にまで関係をもつことは、ほとんどと言っていいほどない。それに比べ、「学校」の教師は、生徒の内面に対する教育というものが非常に重要になる。
 言うまでもなく勉強も大事だけど。例えば、いじめられっ子、忘れ物の多い子、授業中、教科書もノートも机の上に出ていない子。そういう子供に対し、「学校」の教師は内面から原因をさぐり、その内面を教育により、改善していかなければならない。僕だったら、そういう子供にすぐに気づいて、そして、かかわっていけるだろうか。いざ、教師になると、たとえ担任になったとしても、クラスの生徒たちと接する時間というものは、非常に少ない。そんな中で、そういった「問題児」に果たして気づいてあげられるだろうか。今は、ぜったいの自信があると思っていても、現実はそうはいかない。実際にいじめられて自殺するという子供があとをたたない。そんな世の中、たとえ力量が少ないとしても、そのような子供のために、何かをやってあげられる「学校」の教師に、僕は絶対になりたい。

関根正明『教師−自己の伸ばし方磨き方学陽書房、1990
S.K.:0年度生
 この本には、教師にとって自己を伸ばすために必要とされることが書かれているが、このことを全て実践することができる者はいないが、少しでも実践することで子供も変化するであろうと思う。
 以前“教えることは学ぶこと”として、学ぶとは何を学ぶかに対し、教えることで現在の自己を伸ばして、生徒を引っぱっていくということがあったが、まさに生徒を理解することも大事であるが、それ以上に自分、教師としての自分が伸びなければならないということを考えさせられた。
 自己を伸ばし、更にそれを磨き上げるには、内面から見つめ直し、今の自分を一から組み直すことが必要とされる。生徒とは、自分を映す鏡のような存在であることから考えると、教師は本当に生徒と一緒に学んでゆくべき存在でなければならないことが考えられる。
 今より良い教師になるためには、根気と忍耐力が要求されている。

有田和正『教師はどこを見られているか:教職活動十戒明治図書、1994
T.N.:0年度生
 この本で取り上げられているとんでもない教師達を見て、私は大変驚いた。周りに言うことに耳を傾けようともせずに、自分が一番で、自分が正しいといった「お山の大将的気分」になっている教師が増えているなんて、なんとも悲しいという他ない。これは6年前に書かれたものであるので、今現在、この状況が悪化しているのではないかと不安になる。このような指導者達はおそらく子供達のことなどあまり考えてはいないのだろう。むしろ自分のことばかりで精一杯なのだと思う。教師というのはまず、自分の子供たち、生徒のことを最優先に考えなければならないだろうに。それどころか自分自身のことですらままならぬ状態なのだ。あいさつもロクにできず、マナーも悪く、敬語の使い方も知らない、そんな教師に指導される子供達のことを思うと、ゾッとする。キチンとした指導が行われているかどうかすらあやしいものである。今、今後これからの教師は英語の能力があり、情報機器の操作ができる人物が望まれるとはよく言われるものだが、この本を読み、それ以前に人間として、指導者としてあらゆるものに欠けていてはそのような能力を持っていたとしても何の役に立つのだろうと思った。

中本克美『教師のやりがい子どもの学びがいぎょうせい、1995
D.I.:0年度生
 今までの授業の中で「私が望む教師」として、私が子どもと同じ視線でものを見て、子どもと同じ心をもつことができる教師をあげました。この本を読んでいて、実際にこういう心を持っている教師は少ないんだと言うことに気付きました。自分が小さい頃を思い出してみると、子どもはいつでも新しいものを発見しようとしているのだと思います。だから、子どもが何かを見つけて、そのことを教師に報告したときの教師の何気ない返事がその子のこれからを決定づけてしまうといっても過言ではないと考えています。みならいたい教師というのは、子どもに感動できる教師で、感動できない人は教師になる資格もないと思います。まずは、子どもの発見を共に、素直に喜び、タイミングを逃すことなく、ほめてあげることが大切だと思っています。

諏訪耕一ほか『これだけは知っておきたい教師の禁句、教師の名句黎明書房、1996
O.A.:0年度生
 それぞれの言葉、特に禁句を教師が使ってしまった場合の、教師と子どもの両方の心理などの分析が、さすが現役教師だなと思い、参考になりました。その分析に合わせて自分がかつて生徒であったときの気持ちとかを思い浮かべたりして、生徒の立場でものを考えるということを思い出させてくれる本だと思いました。このように言ってみては、という例にも、私なりに納得のいかないものがあったりして、自分なりの答えを考えてみることができました。
 そうした中で考えたことは、全体的に名句というのは、生徒を校則や教師の都合でしばりつけてはいけなくて、生徒に共鳴する言葉なのだなと考えました。それから、生徒がある事柄を解決するのに、生徒の自発性をうながすことができるような言葉が名句と言われるのではないかと思いました。禁句の中には、そんなヒドイこと、と思うものが数多くありましたが、教師も、言おうと思ってではなく感情にまかせてつい言葉が口をついて出てしまうということもあるようなので、難しいことだけれども、日頃から心に余裕を持てるようにし、名句を言えるように、慣れるよう努力すべきなのだなと考えました。

川上亮一『プロ教師の生き方洋泉社、1996
M.A.:0年度生
 現在、教育現場は大きな再編を求められている時である。少子化に伴う生徒数の減少やいじめ、不登校など問題は山積みだ。そのような問題の中に置かれる教師の立場・生き方をもう一度考え直す必要があるよう思われる。今、教育大学に通う私ができることとは何だろうか。まず第一に現在の教育現場の実態をしっかりと把握すること。テレビや雑誌だけでは分からない現状を自分の目や耳を使って知る努力を怠ってはならない。そして将来教育現場に出たときに、生徒と真っ正面から向き合っても恥ずかしくないように、自分自身を磨かねばならない。そのためには、たくさんの人(教授や教師を含めた大人)や、たくさんの書物との出会いが不可欠だ。これから約3年間の大学生活は、何をやっていてもすぐに終わってしまうはずだ。有益なものとするためには遊んでいる暇などは一切ない。

有田和正『教師の実力とは何か明治図書、1996
H.K.:0年度生
 私が今まで教師という職業について抱いていた考えがくつがえされる思いであった。一番に感じたことは、教師とは“仕事”なのだ、ということである。当然のことなのだが、どこかで教師という仕事に甘さを感じていたのかもしれない。ただ『教えるだけ』なのではなく、自らがたえず研究することが求められる。より多くの読書をすること、教える前に実際に現地に行ってみること、飛び込み授業を進んで行うこと。教師を選んだのならば、自分の性格に責任を持たねばならないのではないか。なぜなら、子供は教師に大きく影響され、クラスの雰囲気も教師の性格が反映する。
 自分を無知だ、と認識する教師こそ、他人から多くのことを学べ、またあらゆる角度から物事をとらえられるはずだ。忙しい職業ほど、人はこまぎれの時間を有効に使えるはずだ。この本を読んで、強く考えたことは、教師という仕事の大変さを感じ、またその結果として返ってくる喜びを感じさせられただけでなく、教師という仕事を楽しむこと、プラスαの工夫を加えることによって子供たちも、また自分自身にとっても良い結果がうまれる、ということだ。こんな教師なら、子供たちは幸せに違いない。

森川輝紀編著『中学校・高校教師になるにはペリカン社、1998
K.H.:0年度生
 僕がこの本を読んで感銘を受けた所はある高校教師が自分がなぜ教師になりたいかという問いに「子供に知る楽しさを学んでほしい」といった事でした。確かに自分が高校生の時を考えると、教師は「こことここは大事なので憶えろ」と言っていただけだと思います。でも僕が教師を目指そうとしたきっかけは中学校の英語の先生でした。その先生は暗記!暗記!!の授業ではなく、英語を話せることのおもしろさ・楽しさを教えてくれたと思います。だから僕は今英語が好きで、また教師を目指すようになったのです。「子供に知る楽しさを学ばせる」これは基本の様ですが非常に難しいことだと思います。僕は今バイトで塾の講師をしているのですが、全然そういう授業ができていないと思います。しかし、「教える事は学ぶ事」どんどん自分で勉強して自分の目指す、理想の教師を目指したいと思います。

エスメ・グロワート『教師と子供のポートフォリオ評価論創社1999
T.W.1:0年度生
 教師とはEducator(子どもの可能性を引き出す者)である。そのために、この本は科学の実験授業から、子どもに具体的に何を学んでほしいのか、また、実際何をどういう過程で学んだのかを示唆してくれた。
 子どもの成長に引き出しを見つけるのはなかなか難しい。しかし、1人の教師が1年間のポートフォリオを作成し、それを次の教師に渡せば、その子どもオリジナルの指導要項を出すことができる。
 明確な授業の目的を子どもたちに理解させることで、子どもたちの学習意欲は高められる。問題は子どもに分かるように説明する力があるかないかだ。教師自身も楽しんでいないと、想いはなかなか伝わらない。子ども1人1人のポートフォリオを作成することは子ども1人1人を愛することだと思った。

鵜川昇『子供を喰らう教師たちプレジデント社、1999
K.M.:0年度生
 著者は神奈川・桐蔭学園理事長として活躍されている。氏はプロの教師ということについて述べている。
 今の社会は、だいたいなんでも手に入る世の中になった。それゆえに、自分の意志や欲望を抑えることができなくなる。するといわゆる「ナイフを持って人を殺す」少年少女があらわれる。それは自分たちを中心に世の中は動いているという、文明の豊かさゆえの悲しい勘違いだ。しかし、それは教師にも言えるのではないだろうか。しっかりと、自分の意見を言える、辺りに流されない教師が、だんだん減っているような気がする。生徒は先生をよく見ている。八方美人な教師よりも、持論をしっかりと持っている先生の方を信頼するのだ。もちろん持論を持っているからといって「自己中心的」な先生は、人間として信用されない。人の話をしっかり聞いて、生徒に対してヘコヘコしない先生。これがプロの教師ではないかと、私は考えた。


学生による印象に残った本の紹介(1999年度)
ヘレン・ケラー伝記
(M.W.−99年度生)小学校か中学校で読んだ覚えがある。手の付けられない乱暴者のヘレンをサリバン先生が叱りながらも大きな愛で教育してゆく姿がすばらしいと思った。教育とは闘いであり、人との交わりであるものなんだなと、感じた。

アンの青春
(K.S.-99年度生)最初はアンのことを小馬鹿にしていた生徒達も、アンの愛嬌のあるおおらかな性格に触れていく内に、自分たちの本当の性格を出してくる。その変化をアンは素直に受け取り、いいところを伸ばしていく。きれい事かもしれないけれど、こんな教師がいてもいいなと思った。

太陽の子』灰谷健次郎
(E.A.-99年度生)沖縄の話を書いたもので、とても印象深い。ふーちゃんのまっすぐな心が読んでいて、内容をより深いものにした。お父さんの自殺のシーン他、いろいろ泣けるところも多かった。今の自分を見つめ直すことのできる一冊だと思う。
/(Y.T.-99年度生)子どもの中にも大人と同じように子ども社会があって、傷つけたり傷ついたりしながら成長することがわかった。林太郎のようにすごく純粋で、物事を正面から受け止める子には、保育園のあんちゃんやおじいちゃんのような存在が大切だと思う。また林太郎と接する人(先生や子どもたち)もどんどん変化しているのがおもしろいし、私自身もまた教師という職業がおもしろく見えた。

アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス
(N.S.-99年度生)IQの低い男性が手術をしてもらって、とても頭が良くなったけど、手術前に会った人との触れあいとか、人間的なものをすべて失ってしまう。知能がすべてではないということを感じさせられた。
/(T.W.-99年度生)僕が今まで読んだ中で一番感動した本。知能指数の低い男が、手術をした頭が通常の人よりかなり良くなるが、徐々に能力が落ちていくときの男の恐怖やそれによって気づくことなど、ためになった。


村上による本の紹介

別枝篤彦 1983『戦争の教え方−世界の教科書に見る−』新潮社
 核世界戦争の危険性はかなり低くなったが、局地的戦争が勃発する危険性は増加しています。衛星放送で世界のニュースを見ると、画面から戦争の映像が消えることはありません。戦争についてこれからも教え続けることが大切です。また、日本とアジアの若者が出会うとき、日本の若者は自国の行った戦争についてあまりにも知りなさすぎますが、その理由の一つが教科書における記述のあり方ではないでしょうか。 この本は、世界の教科書に書かれている戦争の教え方を紹介したものです。そこには、日本の教師が考えつかなかった戦争についての新しい見方、教え方のヒントがあります。また、戦争について教科書でこんな事まで、またこんなに詳しく教えるのかと驚くかもしれません。
 各国の教科書には、戦争とは何か、人間はなぜ殺し合うのか、さらに戦争を分析する目などについて記述があるものもあります。教科書への戦争の書き方は国により随分と異なり、国によって自国が行った戦争を無視したり、美化したり、深く反省したりしています。また、愛国心、ナショナリズムへ疑問を促している記述もあります。 別枝さんは、日本の教科書では原爆の被害の実態など何一つ記述しておらず、まるで他人事のような記述に終始しており、教科書はかくも「客観的」、無味乾燥な事実だけの記述でよいのかと疑問を述べています。また、日本の教科書には、外国の教科書の特色ともいうべき具体的記述、あるいはそれをふまえての教室での、教師と生徒の一体となった活発な討論の手がかりなどは全く記されていないと批判します。
 子ども達が戦争をいろいろな視点から分析して、戦争にどう対応するか、いかに平和を確保するかを考えることが必要といえます。外国で戦争をどのように学習しているかを話してあげることは、子ども達の歴史を見る目や戦争についての考えを深めるのに役立つと思われます。


アース、ワークスグループ編  1993『子どもたちが地球を救う50の方法』ブロンズ新社
 まず本の引用から、「わたしはギデオンに、子どもでも地球を救えると思うかい、ときいた。すると彼がこう答えたんだ。『うーん、どうかな、わかんないや』わたしは彼が『そりゃできるさ!』と答えるのを期待していた。たぶん、自分にはいまの地球を変えることなんかできないと思っている子どもは多いのではないだろうか。」  「反○○」と唱えるだけでなく、それに代わるより良い具体的提案をする「代案型」の活動をするほうが子ども達に信頼されます。この本では、アメリカの実際的な思考方法により、10歳前後の子ども達自身が環境改善に「参加」できる方法をあげています。
 本の中では50のテーマが示されており、例えば「ビンはごみ? とんでもない」「ミミズにエサを」「小川の水の色テスト」「よりよい世界の夢を見よう」など。読者はそれぞれのテーマで示されているたくさんの環境改善の方法から、いくつかを選んで実行しても楽しいでしょう。この本が身の回りの生活を見直すことにより、子ども達独自の方法を見つけだすことへの材料になればもっと良いのではと思います。 子ども達は、自分のできることはしたいと思っているばかりか、自分の役割を果たすことを熱望しています。この本はそんな子ども達に情報を与えて励まし、子ども達にも状況を変える力があるんだという意識を持たせることを目指しています。
 世界的課題について、一人の地球市民として問題解決に参加する方法を考え出す教育システムを、学校教育や社会教育の中に創ることが私たちに求められています。それは創造的な学習であり、子ども達が住むことになる未来への準備に通じるものであります。行動のためのてがかりを見つけ、その手がかりから行動に移れる自由とエネルギーを子ども達に与えたいものです。


ジェームズ、クラベル 1983『23分間の奇跡』集英社文庫
 この本は、アルフォンス・ドーデの有名な「最後の授業」の続編といった内容の本です。授業の終わりに、アメル先生は、黒板に大きな字で「フランス万歳」と書きました。この続きはどうなるのだろう、と興味のある人にはこの本はおもしろいですよ。
 アルザス・ロレーヌ地方と物語の場面は変わりますが、最後の授業の翌日の「最初の授業」に、若くてきれいな女の先生がやってきました。あんなにこわがっていた子どもたちが、新しい先生を大好きになりました。そして、元の国の国旗をバラバラに切ってしまい、先生のいうことをよく聞いていっしょうけんめい勉強しようと思うようになります。 しかし、この先生は子どもたちに制服を着せようとしたり、「指導者」にお祈りさせたり、なにかナチスドイツや戦前日本の天皇制イデオロギーの注入を連想させます。子どもの人格の完成をめざすべき教育と、こうした教化や洗脳とをはっきり区別する必要があります。子ども達にも全体主義への潜在的なあこがれがあるため、特に小学校の教師は注意すべきといえます。
 作者のクラベルが全体主義的教育の舞台裏を見せてくれるので、読者のみなさんが教育の可能性と恐ろしさをこの本により考えてくださればと思います。  また、簡単な文章ですから子ども達にも読んであげて下さい。子ども達はいろんな感想を持ち、教育の不思議さに驚くかもしれません。子ども達にとって、当たり前と思っていた「受ける」教育を、「する側」からの視点で考えさせてくれ、教育を相対化させるのに役立つ教材です。しかし、画一的な教育を受けることに慣れている日本の子ども達に、この本が憤慨や反対や拒否を引き起こすことが無く、あまり違和感を感じさせないのであれば、私達の教育方法について反省する必要があります。23分間で読めます。


エーリッヒ、フロム 1959『愛するということ』紀伊国屋出版
 愛することは技術であると説く『愛するということ』は、著名な心理学者であるエーリッヒ・フロムによって書かれた本です。原本は1956年に書かれ、1959年に翻訳が出された随分と古い本ですが、版を重ねて世界中で読まれています。
 教育学部では、学校で数年に渡って教育されてきた学生を、教育する側に立つことができるように支援します。教師は子どもに対して、教育愛を持つことが期待されていますが、それが何かを学ぶ機会は少ないといえます。若者は恋と愛に関心を持っていますが、多くの場合、愛とは愛されることであり、愛の技術とは愛されるためのファッション・化粧や、話し方や仕草、またデートの仕方などと誤解されています。
 しかし、フロムが述べるのは、愛されることではなく、愛することの理論と実践についてです。フロムによれば、愛するとは自分の中にあるものを与えることであり、それは自身の喜び、興味、知識、ユーモア、時には悲しみなど、自らの命を与えることによって相手を富ませるといっています。
 フロムは、愛について四つの基本的要素を説明します。@愛する者の生命と成長を積極的に配慮すること、A相手の身体的・精神的な欲求に反応する責任を持つこと、B相手の自由とその人がありのままに成長し発達するように尊敬すること、C相手の中核にまでの知識を深めること、などです。四つの愛の基本的要素は、教育愛の要素でもあるので、特に教育にかかわる私達には、愛するという技術は修得が必要であるといえます。
 ただし、愛することは生産的構えを持った成熟した人間にみられるものであり、成熟の途上にある若者は、愛する技術の修得を目ざすべき存在といえます。読みやすい本とはいえないので、じっくりと時間をかけて愛することの意味を真剣に考えるために最適な本といえます。当座の恋に役立つマニュアルを探している人には向いているとはいえません。


村上登司文 2009「戦時下の京都師範学校の教育 −1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として−」『京都教育大学紀要』
   
 「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンがありますが、教え子を戦場に送った教師はどのように養成されたのでしょうか。京都教育大学で学ぶ学生にとって、その前身である京都師範学校で、戦時下にどのような教育が行われたかは、身近な平和教材といえます。当時の師範学校は、高等小学校からは15歳、中学校からは17歳で入学し19歳で卒業しました。
 京都師範学校で1945年前後に作成された公的文書を綴ったたものが、2009年に京都教育大学事務局で見つかりました。本論文は、皇国主義思想を持つ京都師範学校の長岡弥一郎校長が作成した令達(昭和20.4.9〜昭和21.5.2日付け)及び式辞や祭祀を引用しながら、敗戦を挟んだ1年あまりの師範学校の教育状況について考察しています。
 長岡校長による令達の中に、緊迫した戦況下の学徒動員について、「生徒の付添教官は、生徒の死命を握る重大なる責任を担う者として深く敬意を払う者なり。ゆえに教官は、一言一行といえども生徒の信頼を失うがごときこと無きよう。否、教官の下には莞爾[にっこり]として死につくだけの信頼感を持ちいるよう細心の配慮ありたし(昭20.5.29)。」また、戦意高揚のための令達として、「学校における諸会合催しにおいて、例えば壮行式、離任式などにおいてなす挨拶感想等はすべて積極、明朗、闊達にして必ず戦意高揚に資するものたるべく、消極感傷の気分に流るるがごときことなきよう師弟各々厳に戒められたし(昭20.6.21)」(現代表記に改めました)とあります。
 その年の8月に敗戦となり、長岡校長はGHQによる教育指令に戸惑いながらも、その教育政策に追従します。けれどもGHQ命令による教職員適格審査において、長岡校長が文部省教学官のときに、極端な国家主義および軍国主義的思想を持って、学校教育を指導したことなどにより教員不適格と判定され、京都師範学校長を免職になります