大社小メモリアルホール

                                  西宮市立大社小学校

 戦時中、西宮市は空襲により、県下では神戸市に次ぐ大きな被害を受けた。
 学校関係では2つの中等学校と5つの国民学校が空襲被害を受けている。
 校舎の全焼や一部焼失などの被害が出ている。
 大社国民学校では、5月11日の空襲で爆弾の直撃により鉄筋校舎が大破し、2名の職員が亡くなっている。

  <証言 戦時下の大社小>

 川口一鱗さん(昭和12〜25年在職)      

 昭和20年5月11日、警戒警報発令で子どもを送り届け、帰ってきて玄関前の庭で、横山茂、森下繁雄両訓導とさつまいもの手入れをしていた。そのとき飛行機の爆音と高射砲の破裂音とが西の方から聞こえてきたので、空を見上げると青空に薄い雲が流れており、その切れ目にB29の編隊が見えかくれしていた。私たちは慣れっこになっていたので慌てもしなかったが、高射砲の破片を受けたらいけないと考え、せんだんの木のそばに行った。森下先生も私の近くに来ておられた。急にドッドッド、ド、ドと爆弾の落ちる音が南から近づいた。高射砲の破裂音がだんだん激しくなる。「危ないっ!」と思ったときに、爆弾は何発か身のまわりに落ちていた。無意識のうちに旧越水城のから堀の中にとびこんでいた。圧力で胸がおしつけられて呼吸が苦しくなる。鼓膜ががんがん響き、生ぬるい血の筋がほおを伝わってきた。目をあけたが土煙で何も見えない。道へ出たら土煙の薄れた土手の中央に、ひとり突っ立っている横山先生が「森下か」「川口です」「森下はおらんか、森下、森下」としきりに求められていた。わたしは、当時学校に駐とんしていた暁部隊の防空壕で傷の手当てを受けたが、学校の近くで兵隊さんが爆弾でやられたとか、森下先生や林先生が見えないという話が出ていた。

 斉藤美節子さん(昭和12〜26年在職)     

 昭和20年5月11日午前11時過ぎ、B29の爆撃で大社小学校は東北の角に爆弾が投下されました。屋上から1階まで大きな穴があき、見るも恐ろしい情景でした。3階の東の裁縫室にはミシンが15台ほどありましたが1台も残らず吹きとばされていました。教室の窓ガラスは全部吹きとばされ、机も椅子もあとかたもなく、わずかに床とコンクリートの間に教科書の小さくちぎれた紙片が残っているくらいでした。
 それにも増してこの爆撃で、森下先生と林先生が亡くなられたことです。校舎の中にいてはとても危険ですから、北側の谷や木の陰にかくれました。森下先生は大きな榎の木の下に、横山先生は校舎東側の溝の中に、林先生は逃げる間がなかったのか道に伏して、私は谷に下りて逃げ場を探しましたが適当な場所が見つかりません。ふと見ると在郷軍人の方々が山に穴を掘っておられた場所を見つけてその中にかくれました。私のからだがやっと入れるくらいのものでした。その時、ものすごいショックを受けてしばらく気を失っていました。私のかくれていた場所の上のいも畑に爆弾が投下されたのでした。畑の土で私のからだはものすごい力で打ちたたかれしばらく気を失っていました。
 夢かうつつか死の前をさまよっていましたが、目の前が少しずつ明るくなってきました。「ああ助かった!」嬉しさでからだを動かそうとしましたが、土に埋まっているので動くことができません。土をかきわけてやっと外に出てみると谷は土で埋まり道と同じ高さになっていました。山の木はなぎ倒され景色は一変していました。私といっしょにそれぞれの場所に避難した方々が一瞬のうちに亡くなられていたのです。
 校舎の中に入ると、両側の窓ガラスが廊下に落ちこんでとても歩けません。やっと運動場に出ると、朝礼台の上で折島校長が「火を消せ」と大声で叫んでいらっしゃるのです。よく見ると理科室から火の手が上がっているのです。これは大変と給食室から木の桶を持てるだけ多く持って水槽の所まで運びました。やっと火が消えたので、一応お二人の遺体を丹羽様の西側の松林に運びました。それから戎神社の北側の順心寺に運びました。この空襲でたくさんのご遺体が本堂に並べられていました。戦争の恐ろしさを目の前で嫌というほど見せつけられて、改めて私は平和の尊さ、ありがたさをしみじみと思います。

 稲田純子さん(昭和21年度卒業生)       

 私にとっての大社は、国民学校である。
 昭和16年入学、22年卒業、この6年間、小学校は国民学校と称し、戦中、戦後の混乱の渦中にあった。
 敗戦の三ヶ月前、昭和20年5月11日、警報が鳴るや、防空頭巾の緒をしめながら、田んぼ道を家に向かって走った。低空を飛行するB29から一斉射撃を受け、何度もあぜに身を伏せた。目の前を無数の弾が、つ、つ、つ、つと道に穴をあけながら走る。ようやく家に帰り着き、防空壕に飛び込むや、爆音とともに大地がゆれた。
「学校に爆弾が落ちた」
 敵機が去って、静かな街に人声は戻ったが、白亜を誇る校舎には大きな噴火口のような穴があき、ひんまがった鉄骨がむき出しになっていた。
 さっきまで遊んだ若い先生が二人なくなった。担任の川口一鱗先生の頭に巻かれたほうたいからは、いつまでも血がにじんでいた。
 終戦が三ヶ月早かったら、いや、戦争がなかったら。私にとって、大社は反戦の原点だ。


 校舎は一部改修され、戦後も使用されたが1993年に新築のために取り壊された。
 その際に、空襲の被害を物語る部分を保存し、新校舎内でメモリアルホールとして残している。

       

 被弾した鉄扉や屋上の柵、壁の一部が一ヶ所に集められ、戦争の記憶に触れられる場所になっている。

      

 その周囲には、戦争だけでなく、地中から見つかった古墳や古い生活道具などの歴史遺物も陳列されている。

 また、児童の平和学習の作品やメッセージも展示されている。
 平和学習の発表や交流の場となりうるということだ。

     

 少し惜しいのはそれが数年前のものまでであること。
 常に新しい作品が登場するような場であってほしいものだ。

     

 大社小では、改築当時にメモリアルホールを作ろうという機運が高まり、実現したわけだが、他の学校では失われた戦争の痕跡もある。
 まだ少し残っている学校でも、これからの改築時には、大社小をモデルとして戦争遺跡の保存に取り組んでもらいたい。
 そして、ただ保存して死蔵するのではなく、それを活用して活発な平和教育を展開していくようにしていきたいものである。

2007.8.30.

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